刑務所アート展 活動記録 活動レポート「加害/被害の距離と対話」

活動レポート「加害/被害の距離と対話」

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11月22日から24日まで、大分、福岡、宮崎と移動しながら加害/被害の間の対話について考える旅をしました。その対話は可能なのか、対話を可能にするものは何なのか、司法の場では語り得ないことは何で、そしてその何かを語ることはできるのか、そんなことを考えながら過ごしました。

お会いしたのは、死刑囚の奥本章寛さんのご家族と、被害者のご遺族のMさん、その間の対話を長年つないできたオークス(奥本章寛さんと共に生きる会)の荒牧浩二さん。また、そのオークスの活動に大きな影響を与えた原田正治さんにもお会いしました。原田さんは、被害者遺族として加害者である長谷川さん(死刑囚)との面会や文通といった交流をし、長谷川さんと対話を重ねるためには死刑に反対であると訴えてきました。その活動はその後、Ocean 被害者と加害者の出会いを考える会につながっていきました。

まず最初にお会いした奥本章寛さんのご家族は、のどかな山間の中にある、自分の祖父母の家を思い出すようなお家の佇まいで、我々の到着を外で待ってくださり、夕飯までご用意いただいて、あたたかく迎えてくださいました。

奥本章寛さんは、色鉛筆で絵を描き、その販売収益を被害者遺族への弁償にもあててきた方です。しかし、ご家族にお話を伺ってみると、鉛筆さえ握っているところは見たことがないし、本を読んでいるところも見たことがないと。ずっと剣道をやって少年時代を過ごし、その後自衛隊に入っていった、わかりやすく言ってしまえば体育会系だったそうです。だから、最初に絵が届いた時には驚いたし涙も出たそうです。こんな絵を描くんだと。

そんな中、法務省の訓令により色鉛筆が使えなくなってしまい、奥本さんは現在、色鉛筆の使用を求めて国に提訴しています。

被害者遺族のMさんが面会に来てくださっていた頃は、償いの相手が目の前に見えていたからこそ、苦しい中でも生きることができていたそうですが、最近ではその交流も途絶えてしまい、さらに色鉛筆も使えなくなり絵が思うように描けなくなり、元気をなくしてしまっているようです。早く死刑を執行してもらいたいというような、そんな章寛さんの自暴自棄にも似た思いを荒牧さんは感じとっているようです。

荒牧さんとしては、なんとか対話をつなぎたいし、これまですぐそばでその対話を見てきても、全然語るべき何かが語れていないのではないか、もっと本音で話してもらいたいけれどそんなことを自分が求めてもいいのか、そんな悩みも伺いました。

死刑囚の支援といえば、基本的には「より長く」生きてほしい、1日でも執行の日を延ばし死刑は回避したいし、その日々は平穏であってほしいと思うものだと思います。ご家族の思いも同じであると想像します。ですが、支援ではなく「共に生きる」ことを考えたい荒牧さんは、奥本さんにその日々を「より深く」も生きてほしいと言います。でも、より深くって何なのか。そんなことを求めていいのか。共に生きるって何なのか、そんな思いがぐるぐるしているようでした。 荒牧さんと私は、非当事者としての関わりという意味で近いものがあります。私としては、「より深く生きる」というところに文化的な活動が必要だと感じています。

翌日のトークイベントでは、原田正治さんも交えて対談をしました。原田さんは、事件から10年が経って、自身の弟さんを殺害した長谷川さんに会ってみようと思い至ったそうです。その10年の間も、長谷川さんから手紙は届いていたものの返事は一度も書いていなかったそうです。

会ってみようとは思ったものの、初めての面会の時には、拘置所の周りを何度もぐるぐるまわって、面会を申請する用紙を記入している時にはその手が震えるほど怖かったそうです。面会を待っている間は、相手にぶつけようと思っていた怒りがあったそうですが、面会の扉があいて長谷川さんの笑顔を見た時には、謝罪の言葉を直接聞いた時には、ぶつけようと思っていた何かはその場では消えてしまい、何気ない話をすることから対話が始まったそうです。

しかし、その何気ない日常的な会話の中に、裁判では語られなかった大事なこともあったと。そういう対話の積み重ねの先に、原田さんがずっと聞きたいと思っていた事件のことを聞こうと思っていたところ、長谷川さんの死刑が執行されてしまいました。

今の原田さんの思いは、決して長谷川さんを許せるなんてものではないと。事件後に原田さんのご家庭も壊れてしまい、何重にも被害にあってきて、そのことを考えたら許すなんてものではないと。けれど、事件のことを話せる相手としては一番の理解者だったともおっしゃっていました。会って話しをしてみないとわからないことがたくさんあると。

被害者遺族で死刑に反対することは、当時各方面からのバッシングがあったそうです。いわば、社会が求める被害者像に合っていないと。聞けば聞くほど、その思いや考えは、社会が容易にわかるほど単純ではないということだけが感じとれます。
※当日のトークはInter7のFacebookページからご覧いただけます。

その翌日にお会いした奥本さんの事件の被害者遺族であるMさんは、私とも年齢が近い方でした。Mさんは、奥本さんの手により、お姉さんとお母さんと甥っ子さんを一度に失いました。それでも、直後のお葬式に奥本さんのご家族が訪れた時には、車の誘導までして迎え入れたそうです。その後も奥本家にご飯を食べに行ったりと交流もあったようです。また、荒牧さんがつなぐかたちとなった奥本さんとの面会にも応じました。というよりも、Mさん自身もずっと奥本さんと会いたいと思っていたと。その最初の面会では、「だからお袋には気をつけろと言ったろ?飲みに行こうと言っただろ?」と、伝えたそうです。

というのも、何が真実なのかはわからないですが、奥本さんは義理のお母さんとの関係の中で何かがあり、凶行に至ってしまったようです。そのことはMさんも母親をよく知っているから想像はできると。

だからこそ、なぜこんなことをしたのか、なぜ自分の家族だったのか、奥本さんに問いただしたい思いはありながらも、何度面会に訪れ、手紙でそのことを聞いても、「わからない」や通り一遍の謝罪の言葉でしか返ってこないと。その後面会も途絶えたようです。

何が真実なのかはわからない。なぜなら、奥本さんも被害者の悪口になってしまうようなことを、被害者遺族であるMさんの前では言えないし、裁判でもそのことの多くは語られなかったからです。裁判は基本的には検察が描くストーリー=身勝手な行いだった、として進んだそうです。

一時は奥本章寛さん本人、奥本さんご家族との交流がありながらも、Mさんの親戚や被害者遺族会などが、その様子を見て引き離すような働きかけがあり、交流が今は途絶えているようでした。

今にして思えば、奥本さんの死刑を回避するためのオークスの活動にMさんを結果的に利用するような側面もあったかもしれないと(対話を望む思いも事実だが)、荒牧さんは振り返ります。被害者遺族会も、Mさんを利用して死刑存置派の主張につなげていたこともあり、Mさんは加害/被害の両者に板挟みになってしまったのではないかと。

当時Mさんは、自分の思いはどこで共有できるのか、共有できる相手はいるのか(家族はもういない)、安心して話せる場があるのか、それを求めてその被害者遺族会と関わったそうですが、何か違うと感じたそうです。

そして、自分が受けてきた苦しみは、奥本さんにはぶつけられない。なぜなら、自分が苦しんだことを加害者に明かすことは、何か自分の負けのように感じる、加害者側の思うツボなのではないかと思えてしまう、そんな感覚があるそうです。 今また奥本さんに面会したいですか?と、M
さんに聞いてみると、「会ってもいい、ただきっと変わっていなんじゃないか」と。

Mさんは、ずっとマスコミの取材も拒否し続けてきて、公には多くを語ってきませんでしたが、最近は本を書いてみたいと言います。それを奥本さんにも読んでもらって、何か応答もしてほしいと。事件からやはり10年という月日が経っている今だからこそでしょうか。まずは、オークスの通信に短くても書いてみようかという話になりました。

対話は可能なのかという問いに対しては、実際に対話をしている人たちがいるので、可能だとも言えそうですが、しかし当たり障りのない会話をしているだけでは、それは対話と言えるのか。加害者/被害者(遺族)という関係がある以上、決して対等な関係になどなれない、互いに言えること・言えないことがある、それでも対話といえるのか。

対話を可能にするものは何かという問いに対しては、一つは「時間」がありそうです。原田さんもMさんもおよそ10年という時間をかけて、対話をしようという思いに至っています。

もう一つには、両者の合意、特に被害者(遺族)側が対話を望むかどうかです。多くは、加害者と会うなんて怖いし、忘れたいし二度と顔も見たくないと思うような気がします。だけれども、決して忘れるなんてことはできないその事件と向き合っていかなければ、その先を生きることができないということもあるように感じました。向き合うことはしんどいからこそ、原田さんも一時は逃げていた時期があったと言います。奈良で考古研究をされていた時期もあるとか。だけれど、その逃げていた時間も大事だったのではないかと私は感じました。その逃げられる場も文化はつくることができるような気がします。

そして、荒牧さんのような、両者をつなぐ仲介者も場合によっては必要かもしれません。原田さんはたった一人で、怖さといくつもの手続き(法務省の妨害)を乗り越えて、長谷川さんとの対話にこぎつけました。ただ、仲介者の勝手な思いにより、両者に生じるズレが時折起こることもまた事実で、その立ち位置は難しいと思います。

そして、司法の場では語られない何かは当然にあります。裁判は量刑を決める、検察側と弁護側の勝ち負けが争われる、そのための手続的なコミュニケーションにしかならないからです(とはいえ、不要なわけではない)。あるいは、時間と共に語れること・語れないこと、人のその思いや考えは変わっていくものだからです。

時と共に変わる思いや考えに寄り添い社会に共有していくことは、オークスのように奥本さんの絵の図録やカレンダーを作っていくような文化の活動のように思います。

※以上のレポートをオークスのWebサイトにも掲載いただきました。
オークス 奥本章寛さんと共に生きる会